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ろまんくらぶ「仮面の天使」98

マンションは冷え切っていたので健は暖房のスイッチを入れる。コートを脱ぎ、居間の灯りを点ける。今夜は寝室で眠れる気がしない。茉莉が帰ってくるまで、不安と心配でどうにもならないだろう。居間の床に客用の布団を敷くと、テーブルを端に片付け、テレビが見えるようにする。少しぼんやりと布団の上に座っていたが、気を取り直し、シャワーを浴びにバスルームへ向かう。薄いブルーのタオルとブルーのパジャマを準備するとバスルームへ入る。 「どうしたらいいんだろう」 シャンプーを泡立てながら、ついつい手が留守になる。ボディーソープをスポンジで泡立て、強めのシャワーを浴びれば気分がさっぱりするのではないか という期待は裏切られる。不安と苛立ちが神経をピリピリとさせる。キュッと蛇口を閉め、大きなため息を吐くと彼はバスルームを出る。タオルで体を素早く拭き、トランクスをはき、パジャマを身につけると台所へ向かう。 神経を緩ませようとナイトキャップを準備してトレイに乗せ、居間へ運ぶ。どうも眠れる気はしないけれど、少しでも休まないと体にひびいてくる。 部屋の灯りを落とし、彼は独りテレビの前で寝酒を口にする。目の前に流れる画像をただぼんやりと眺めていた。

ろまんくらぶ「仮面の天使」97

台所にずっと座っているのもだるくなってきたため、健は居間のソファに横になる。うとうとしているうちに、いつの間にか眠ってしまう。青い天使が彼を見守るように頬杖をついている。 「あっ」 何だか奇妙な夢を見て、健は目を覚ます。時計を見るともう11時をとっくに過ぎている。恐る恐るスマートフォンの画面を見るが連絡さえ入っていない。 「ほんとに、どうしたんだろう」 ふと嫌な感じが胸をよぎり、茉莉を夜毎探していた時の感覚が蘇ってきて不安になってくる。うきうきしていた気分はとっくに消え去り、部屋の空気が1人であることを強く思わせる。 台所へ行き、テーブルを片付けると、いてもたってもいられずに外へ出る。また茉莉を探し回らなければならないのだろうか。そう思うと焦りの色が見えてくる。コートを羽織っていても外は肌寒く、彼はあてもなくブラブラと歩き回る。遠くには駅の灯りが見える。茉莉が戻ってくるまでここで待っていようかと改札口に佇む。人の波が来るたびにその中に彼女の姿を探す。せっかく元に戻ったと思ったのも束の間、彼女の心は寄り添ってはくれない。 そうして小1時間もそこに彼は立っていた。空気の冷たさが彼の頭を冷やし、終電の人波が過ぎるとマンションへ戻る。

ろまんくらぶ「仮面の天使」96

「は〜、どうしたんだろう」 ついついため息が漏れてしまう健。 「さむっ」 台所はガス火が消えるとすぐに冷えてくる。彼はエアコンを少し強めにする。 熱々だったトンカツも冷えてしまって、何だか心も凍えてくる。 ココアをいれようと彼はカップに粉末を入れ、お湯を沸かす。お腹のぐうっという音がする。どうしようか、何か食べようかと彼は冷蔵庫を開ける。生ハムとナッツ、カマンベールが目に入る。少し何か摘んで待っていようか。そう思うとガスの火を止め、半分残っていた赤ワインを取り出す。おつまみをお皿に盛ると、ワインをグラスに注ぐ。茉莉と飲もうと買ってあったビールを冷やすのを忘れていたため、冷蔵庫に入れる。 「カンパイしたいな」 1人でワインに口をつけると彼はつぶやく。 「カンパイ。ふたりの再出発のために」 独り言を言う。空きっ腹にアルコールが効いたのか、彼は割とすぐいい気分になる。半分空いたワインはそう言えば彼女に飲ませたいと彼女に謝りたいと、少し前に買ってあったとっておきのものだった。滑らかで繊細な舌触り、深くて重くない。きっと茉莉がもっと年齢を重ねたら、そんな感じになるだろうと思わせるような、、。 時計の音は遠のき、健は少しうっとりと夢想に浸る。

ろまんくらぶ「仮面の天使」95

 コチコチ、コチコチ、と規則正しく聞こえる音が段々と健の耳についてくる。 「どうしたのかなあ」 時計は9時を過ぎている。大きなため息をつくと、健は再び、調理に取りかかる。冷蔵庫からバットを出し、ラップを外す。油を火にかけると温まるまで、ダイニングの椅子に腰掛ける。茉莉に何かあったのではないかと心配で、それに気を取られてしまう。油が温まり、衣を落とすとパチパチと音を立てて浮き上がってくる。仕方ない。揚げておこうか。彼女には揚げたてを食べてもらいたかったものの、彼女が帰ってきてから揚げていたのでは、夕飯が遅くなってしまう。もう十二分に遅いのに。 衣のついた肉を滑らせるように油へ入れると、ジャッと音がして、細かい泡に肉が包まれる。揚げている音が台所に響き、そのうちに香ばしい匂いがしてくる。パチパチ、パチパチと音がしてきて、衣が狐色にこんがりとしてくる。少し軽くなったところでカツを油から引き上げる。 「よし、なんかうまくいったかも」 健の気分は持ち直す。あとは茉莉の「ただいま」が聞きたかった。 「ただいま。今日は疲れちゃった」とか「わあ、美味しそう」とか「いい匂い。お腹ペコペコ」とか、、、何気ない一言一言が今の健にとっては宝物のように光り輝く。 「さてっと」 トンカツをお皿に乗せ、キャベツを盛ると、彼は念入りにラップをかける。お味噌汁も出汁に具材を入れて一煮立ちさせておく。カチッと火を止めると、台所は再び静寂に包まれる。 コチコチ、コチコチ、、、10時になってしまう。

ろまんくらぶ「仮面の天使」94

「玉木雅矢、、、か」 渡されたチケットを茉莉はじっと見る。バーテンダーはふたりが少し近づけばいいなあといい加減に考えていた。 「もう一杯」 「濃くします?」 「ううん、普通で。なんだか酔いがさめそうだけど、いいの」 「かしこまりました」 茉莉はカウンターに立ててある小さいメニューを手に取る。 「あと、コレ、ハニーピザとポテトチキン」 「お時間少々かかりますけれど、お席に運びましょうか?」 「うん、そうして。席はあそこの」 「かしこまりました」 グラスを手に取ると茉莉はフロアーの横の通路を行き、自分の席に向かう。戻ると京子と智子が興味ありげに茉莉を見る。 「見た。見たよ」 茉莉はちょっとため息をつく。 「ああ、彼のこと?」 「そう。バーのとこで何話してたの?」 チケット3人分を茉莉は差し出す。 「来てくれないかって招待された」 「え?そうなの、、、どれどれ、、、玉木雅矢、、」 「知ってるその人。ちょっと有名。作曲家の中では」 智子が嬉しそうな声を出す。 「そうなんだ。どんな曲作るの?」 「うーんと、少しテクノがかっているけれど、基本現代音楽みたいな。あんまり流行りとは関係なさそうな」 「踊れる?」 京子はとんちんかんなコトを言う。 「あー、踊るとか、そういう曲ではないみたいだけど」 智子は真面目な顔になる。 「面白いの?」 今度は茉莉が尋ねる。 「どうだろう。まあ、行ってみてもいいかも」 3人は招待券をもらって、行く気になっているようだった。 「おまたせいたしました」 ごくごく若いウェイターが料理を運んでくる。 「あれ、頼んでないよ」 京子がつぶやく。 「いいの、私が頼んだの」 茉莉が店員にお皿を置くように促す。 「これ、何?この黄金色の」 「それ、ハニーピザ。甘いと思う、蜂蜜だから」 「美味しそう」 「ありがとう、茉莉」 3人はちょっとした料理を前に無邪気に喜んでいる。 そしてマンションでは健が台所で1人、時計のコチコチいう音を聞いていた。

ろまんくらぶ「仮面の天使」93

 それでも京子と智子はその彼のことを詮索する。 「わりとカッコイイ」 「ね」 「茉莉ったらじっと見てたじゃん」 「あー、うーん」 周りがけしかけそうになると逆に引き気味になる茉莉。何だか今は恋愛に積極的になる気になれない。友人2人はそんな茉莉の気分に気づいてはいないようで、興味津々で彼を観察している。 「あれ?茉莉は?」 「ほんと、えーっと」 茉莉は2人の側を離れ、フロアーから出るとバーへ向かう。 「何にします?」 「うーんと、ボンベイ、ソーダ割り。強くして」 「いんですか、そんなに飲んで」 「いいのいいの。こう見えて」 「わりと強い」 「そ。わかる?強くなったの」 ベビーフェイスの彼女は頬がほんのり色づく程度にしか酔ってはいない。 「お待ちどうさま」 「ありがと。あと、何か軽く食べるものある?」 「ミックスナッツ、クラッカーチーズ、、」 「あ、それ、クラッカーチーズ。ちょっと小腹が空いてきたの」 「かしこまり」 バーテンダーは手早くチーズをスライスするとナチュラルクラッカーを添えて茉莉の前に出す。 「席にお持ちしましょうか?」 「いい。ここで食べる」 彼女は席に戻ると京子や智子と男の話をする羽目になりそうで、バーのカウンターでクラッカーをつまみ始める。そこにさっきの物憂げな彼がやってくる。 「お客さん、テキーラもう飲んじゃったんですか?」 「まあね。俺強いんだ。っていうか相手がすごい飲んじゃって。水くれる?」 「かしこまりました」 「それと、、、あ、俺もコレ、クラッカーとチーズの」 「トルティーヤもありますよ?」 「いんや、このクラッカーとチーズの」 「かしこまりました」 そこで男は茉莉に話しかけてくる」 「さっき踊ってたよね」 「まあね」 茉莉は少し面倒くさそうに答える。バーテンダーは2人の距離を縮めようとわざとチーズをゆっくりと切る。こういう男女の出会いは側で見ていて悪くはないと勝手に思っていた。男は突然、名刺を差し出す。 「ミュージシャン?」 「ちょっと違う。コンポーザー。作曲してる」 「そうなんだ」 「よかったら今度聴きに来ない?」 彼はチラシを差し出す。なーんだ宣伝か、と茉莉が言い出す前に、彼は招待券を3枚渡そうとする。 「3人で来てよ」 「え?見てたの?」 「まあね。なんかちょっと目立ってるよ、君たち」 「あ、そっか、ありがとう。コレいいのかな...

ろまんくらぶ「仮面の天使」92

そう、踊ろう。踊って踊って何もかも忘れたい。茉莉はグラスを一気に空けるとフロアへ飛び出していく。激しいビートに体を乗せながらキラキラくるくる回り続ける。ピンク色のフレアのミニスカートがまるで桜の花びらのように強い光の中で浮き上がって見える。健のことも教授のこともきらめきの中に飛び散っていく。京子の赤いドレスは光を反射し華やかにスイングする。智子のミニドレスは強いスポットライトの下で太陽のように輝く。トライアングルの美しい彼女たちはどうしたって目立つ。3人の姿は物憂げな若い先ほどの男の目にも留まる。彼は少し離れたところで女と踊りながら、視線を茉莉たちへと向けていた。茉莉は男と目が合う。2〜3秒見つめ合った後、彼女はわざと興味なさそうに視線を逸らす。男はそのままバーカウンターに向かい、バーテンダーにテキーラを頼む。店員は彼の目の前にボトルとショットグラスを置き、ライムを添える。彼はボトルを手に取るとVIP席へ移動する。茉莉は見るともなく視線を泳がせ、彼を目でちょっと追う。男は手前の席に消えていく。カーテンで仕切られていて、外から中ははっきりとは見えない。 「茉莉、ねえ、茉莉ったら」 智子が声をかける。 「あ、うん」 「何か上の空、どした?」 「うん、ちょっとね」 「男でしょ」 京子は鋭い。 「茉莉ったら、さっきっから、ホラ、VIP席チラチラ見てる。なんかイケてる男が入っていったでしょ」 「え?そうなの、茉莉」 「あー、うん、ちょっと見てたけど」 「彼、結構いい線いってるじゃん」 「でも彼女がいるみたい」 茉莉は軽くため息を吐く。 京子と智子が思っているほど、茉莉はその男に興味があるわけでは実際はなかった。カッコイイのは認めるし、少し見ていたのは事実でも、それ以上の関心は今はなかった。 

ろまんくらぶ「仮面の天使」91

その若い男は踊っていてもどこかだるそうで、でも、リズム感は良かった。華奢な体をしなやかに動かすと、時折情熱的な仕草を見せる。どうも一緒にいる女が彼にご執心なようで、ボディタッチを仕掛けながら熱い視線を送っている。彼はといえば、その女性の指先をひらひらと躱しながら、音に身を任せている。茉莉はそこに彼と彼女の隙間を見つけると、皮肉っぽく笑う。 健に夢中で安心しきっていた頃の自分をふと思い出し、メランコリーが襲ってくる。 「茉莉、どうしたの?なんか憂鬱そう」 「あ、ううん、何でも」 「もしかして元彼のこと?」 彼女の友人達は本当に恋愛のことには鋭い。 「うん、まあね」 茉莉も別に隠し立てはしない。 「忘れなよ。どうにもならないじゃん」 まさか、今、その元彼がよりを戻そうとして、ましてや一緒に住んでるなんて、そこまでは打ち明けられない。 「うん、忘れたい。てか、もう忘れた。ちょっと思い出しただけ」 以前の自分を忘れたいのに、彼に目の前をうろちょろされると困るから、茉莉はマンションへは帰りたくない。できるだけ顔を見たくないし、一緒にいたくなかった。 「ねえ、踊ろうよ」 京子が席を立つ。少しアンティークになったユーロビートにフロアが沸き立っている。

ろまんくらぶ「仮面の天使」90

茉莉はまたボンベイのソーダ割りを頼むとバーからフロアを少し眺める。 先ほどの金髪の男はもう他の女性に声をかけて一緒に踊っている。それを見ると茉莉はため息を吐く。 「誰でもいいんだ」 断ったけれど、何だかがっかりする。 「要するに好きとかではないんだよね」 少しふてくされる。 グラスに気をつけながら、茉莉はフロアの脇の通路をゆっくりと歩き、席へ戻る。友人2人は腰掛けていて、だるそうにしている。 「何飲んでんの?ともちん」 茉莉に言われて友人の智子はボブをかき上げる。細めの少し長いピアスが光る。 「ジャックダニエル。さっきとおんなじ」 「京子は?綺麗な色」 「テキーラサンライズだよ。甘いの飲みたくなったから」 京子は長いストレートの黒髪を揺らす。赤いドレスに艶めきが映える。 透明な液体のグラスをテーブルに置くと、茉莉はゆるくウェーブのかかったミディアムヘアを片手で後ろへたらす。 「でさー、見たよ。さっきの金髪」 「ああ、アレ?」 「結構イケメンじゃん」 「でももう他の女と踊ってる」 「あ、ホントだ。かっるー」 「ね。軽いよ。関わると面倒」 「だよねー。めんどくさ。女いっぱいいそう」 茉莉は面倒な恋愛に巻き込まれるのはごめんだった。ソファにもたれ友人と話している方が何倍も良かった。恋愛を面倒くさいとは思っていなかったけれど、面倒ごとに首を突っ込むのは嫌だった。お酒が回ってきて、踊る男女を眺めていると、さっきのバーカウンターにいた若い男がステップを踏んでいる。よく見るとその脇で彼に寄りかかりそうになっているミニスカートの女が見える。 「なんだ。彼女いるんだ」 茉莉はポツリとつぶやく。

ろまんくらぶ「仮面の天使」89

その若い男は少し長めの髪を明るく染め、目元は涼しげだった。ただどこかものうげでフロアをチラとも見ずにグラスを傾けていた。茉莉は遠慮なく、かなり不躾に彼を観察することができた。ダンスフロアを間に挟んでいて、彼の姿が踊る男女で時々見えなくなる。ふと彼女が飲み物を手に取ろうとしてテーブルに視線を落として再び顔を上げた時、もうバーに彼の姿はなかった。一瞬のことで少し夢を見ているようでもあった。 「また会えるといいな」 彼女はつぶやく。 「さてっと」 「踊ろう、ね」 「そうね」 3人は飲みかけのグラスをテーブルに置くと、次々とフロアに出ていく。ゆるいリズムの曲からアップテンポの曲に変わり、3人は輝きながらステップを踏む。熱気と赤いライトが混ざり合い、汗で肌が光って見えた。突然ライトが暗くなると、メロウで静かな曲が流れ始める。いつの間にか2人はテーブルに戻っていたのか、気づくと茉莉はフロアにひとり。そこへ少しシャープな印象の金髪の男が滑り込んでくる。 「踊らない?」 言われて茉莉は少し躊躇い、首を横に振るとフロアを離れ、バーへ向かう。彼女は押しつけられるのは嫌なのだ。 「自分で決めたい」 そう思うと寄ってくる男性を避けようとする。健も今は近づこうとしているけれど、それが彼女には煩わしかった。一度つけられた傷はそう簡単には消えない。 

ろまんくらぶ「仮面の天使」88

食事を終えると茉莉達はそれぞれ化粧室へと立っていく。メイクを念入りに直し、リップをくっきりはっきりとさせて唇をとんがらせる。 「さてっと」 「行きますか」 「いえい」 「お勘定お願いします」 「いつもありがとうございます」 「ごちそうさまあ」 「ごちっ」 「ごちそうさま」 3人はそれぞれキラキラした鮮やかなファッションに身を包み、高いヒールの音を響かせて、勢いよく店を出ていく。渋谷の少しくぐもったようなネオンが彼女達を包む。センター街の奥を右へ曲がり、ずっと道なりに行く。小さな路地を入ると右手にクラブが見えてくる。黒い壁にショッキングピンクとパープルカラーがロゴを形作っている。 入り口でIDチェックを済ませ、3人は店のカードを申し込み、チェックインを済ませる。少し大人っぽい雰囲気に早くもワクワク感が止まらない。店に入ると茉莉の頭の中からは健のカケラがどこかへ吹っ飛んでいってしまった。少々だらけた感じのリズムに体の動きがスムーズに溶け込んでいく。 彼女達は早速バーへ向かい、煌めくボトルの群れに迎えられる。 「何にする?」 「あたしテキーラ、ソーダ割り」 「じゃ、あたしはバーボン。えーっとジャックダニエル、水割り」 「それからジン。ボンベイのソーダ割り」 「かしこまりました」 3人は注文を済ませるとバーのカウンターから離れ、席を探す。店員が彼女達を見て、気を効かせて案内してくれる。 「ありがと」 「やったね。いい席」 3人はソファー席のテーブルに飲み物を置き、体をクッションに沈ませる。夜は長い。何も焦ることはない。茉莉はフロアーで酔って踊っている男女を見るともなく見ている。ふと、また、健のコト、教授のコトを思う。そうだ、何も彼らに決めなくてもいいんだ。そう思うとフロアーの向こうのバーカウンターで肘をついているソフトな雰囲気の男性に目をやる。 

ろまんくらぶ「仮面の天使」87

だいたい教授のことを自分がどう思っているのか茉莉は実際よくわからなかった。甘えたり、お小遣いをもらったり、色々と相談にのってもらったり、、。そんなに深くない関係で、2人がずっと一緒にいることもなかった。こういう関係をなんて言うんだろうなあ、と茉莉はぼんやりと考える。 「ねえねえ、茉莉ったら」 「何だかぼうっとしてるね」 「あ、ごめんごめん、ちょっとね」 「悩み事?」 「ううん、そんなんじゃないの」 「なら良かった。まさか勉強疲れとか?」 「まっさかあ」 茉莉が友人達ときゃらきゃらご飯を食べている頃、彼女が待っているのではないかと、健は足取りも軽くマンションの扉を開く。 「茉莉、ま〜りちゃん」 ちょっとふざけた口調で彼女のことを呼ぶ。マンションは静まりかえっていて物音ひとつしない。 「まさか、寝てるのかな?」 彼はあんまり足音を立てないように廊下を歩いて彼女の部屋へ行く。嬉しそうにドアを開けるけれど、彼女の姿がないので、がっかりする。どうやら彼女はまだ帰っていないようだと彼は悟る。 「ま、いっか。きっともうすぐ玄関の音がするだろうから」 鞄を居間に放り出すと、さっと着替えて、早速彼は調理にかかる。茉莉が帰ってきてから揚げればいいけれど、下ごしらえはしておこうと、キッチンでゴソゴソ始める。 まず揚げ物を準備しようと、ステンレスのバットにパン粉を広げる。それから小麦粉と溶き卵を準備すると、買ってきた豚肉をまな板の上に乗せる。少し叩いて塩胡椒をすると、小麦粉をはたき卵に潜らせる。パン粉を丁寧につけるとバットに並べ冷蔵庫にねかせる。それからキャベツを刻み、トマトを添え、にんじんを散らす。味噌汁も作ろうとワカメを水につけ、豆腐とネギも切っておく。作り立てが美味しいだろうと材料をバットに並べこれにもラップをかける。あとはお漬物を切って小皿に盛り付ける。 「さてっと」 気づくと時刻は8時近くになっている。 「遅いなあ」 健はだんだん心配になってくる。 時計の音がコチコチ響いてそれが耳につき始める。

ろまんくらぶ「仮面の天使」86

 健のことをふと思ったその気持ちを打ち消そうと、茉莉はビールを追加する。 「もう一杯、同じもの」 「かしこまりました」 「茉莉ったら飛ばし過ぎじゃない?」 「いいのいいの」 運ばれて来たグラスに口をつけ、茉莉は勢いよく飲み始める。そのうちに頼んだ料理が運ばれてきてテーブルは一気に賑やかになる。 「美味しいね、このクラゲの前菜」 「ちょっとピリ辛ね」 「ピータンもいける」 「ねえねえ、紹興酒頼む?」 「いいねいいね」 「ボトルで?」 「いっちゃえ」 3人は紹興酒をボトルで頼む。 「カンパーイ」 「カンパイ」 「ぐいっと」 そのうちに肉料理も魚介料理も運ばれて来て、3人はかなりの勢いで食べ続ける。 「ねね。茉莉って教授とできてるの?」 「え?」 「噂になってるみたい」 「まっさかあ」 茉莉は否定する。2人の仲はあくまで非公式だった。大学の教授と学生の恋愛なんて聞く人によっては眉をひそめる。 「どんな噂?」 「何だか2人が喫茶店で親しそうに話してたって」 「ああ、それ。だって先生が教授室じゃなくて、ちょっと息抜きに外でコーヒー飲みたいって言ったから。論文の相談だよ」 「なんだあ」 「それ以上はナイナイ」 茉莉はうそぶく。あんまり大学で2人が付き合っていることを大っぴらにする気はなかった。

ろまんくらぶ「仮面の天使」85

そんな浮かれた健の気分は長くは続かないだろうなあと空で天使が難しい顔をしている。この際だから茉莉の心の痛みを彼にもしばらく味わってもらおうと杖をいじくる。 夜の闇が落ちかかってくる頃、茉莉達は渋谷に着いた。メトロで30分だから大学からそう遠くはない。渋谷に着くと百貨店の会員制のドレッシングルームへ足を運ぶ。いつものようにそれぞれ一層派手なドレスに着替えると、お化粧を念入りに直し始める。 「ねえねえ、見て、これ新色」 「いいじゃん。ケバい。ついでにラメもつけたら?」 「オッケー。ラメもいっちゃえ」 友人の1人はラメ入りの頬紅を軽くはたく。キラキラ感が彼女達の夜を楽しいものにする。 「じゃ、完了」 「ばっちしだね」 「そんではまずご飯行こう」 「うん。お腹ぺこぺこ」 教授からのお小遣いが残っている茉莉のお財布はまだあったかかったから、今夜はふたりにおごっちゃえと彼女は張り切る。 「らっしゃいませー、まいど」 行きつけの中国料理店に茉莉と友人達は勢い良く入って行く。 「生みっつ」 「はいよ」 3人はまず景気づけにビールを頼む。 「カンパーイ」 「チアーズ」 「イエイ」 ごくごくと勢いよく黄金色の液体を流し込む。 「うんまーい」 「ほんとほんと」 「最高だね、やっぱ」 「ご注文はお決まりで」 店員がやってくる。 「まずこれこれ。前菜三種盛り、え〜っとそれから小龍包6つ」 「6つ入りね」 「そうそう」 「いっぱい食べたい」 「それから焼き餃子6つ入り」 「えーっと、それから海鮮炒めでしょ、それから」 「野菜もとろうよ、これは?」 「空芯菜炒め、いいかも」 「それと牛肉と筍のこれ」 「あとピータンも」 「とりあえず以上で」 「かしこまりました」 沢山注文して3人は満足そうだった。ビールもちょっと回ってきて気分は上々だった。 ふと茉莉は健は今頃、まだ仕事だろうなあと思い、怒った自分の気持ちを打ち消すように頭を震わせる。

ろまんくらぶ「仮面の天使」84

「今日は早仕舞い。もし残りたい場合は残ってもいいけど、タイムカードきちんと押してね。残業代払うので。あと鍵の管理よろしく」 「社長、何だかウキウキしてませんか?」 「ほんと。今日は様子が変だった」 「何かあったんでしょ」 スタッフは口々に健をはやしたてる。そんなに浮ついた様子だったのかと彼はどぎまぎする。茉莉が自分のもとに戻ってきたことに彼は嬉しさを隠しきれない。本当の意味で戻ってきたとは言えないはずなのに、彼は喜びのあまり彼女の悩みが理解できていない。 会社を出ると車で来ていないので健はメトロで少し行って、百貨店に立ち寄る。最近話題のエクレアを茉莉のために買って帰ろうと奮発する。 「フランボワーズふたつとショコラふたつ」 「かしこまりました」 フランボワーズの綺麗な色がかつて茉莉がつけていた可愛らしいピンク色の口紅のようだと彼は感じる。甘酸っぱい香りがふんわりと漂う。 「お待たせいたしました。フランボワーズふたつとショコラふたつですね」 「ええ」 会計をすませ、お菓子の箱を受け取ると彼の足取りも軽くなる。あとはスーパーに寄って今晩のメニューの材料を買って帰ろうと少し平静になる。途中、人にぶつかりそうになったが、素早い動きでかわし、何だか身のこなしも軽い。 メトロで家の近所まで戻ると彼はスーパーに入る。手にカゴを持ち、生肉売場の角にある店を覗く。今夜は特別だから、パックのお肉ではなく、ショーケースの中の肉を品定めする。 「これ、これください。鹿児島産の」 「かしこまりました」 健は少し高めのロース肉を頼む。今夜はヒレカツをあげて、茉莉にたくさん食べさせようとはりきる。痩せてしまっている彼女を以前のように少しふっくらとさせたかった。生肉売場を離れると次は青果売場へ行き、キャベツやトマトを選ぶ。野菜も沢山食べてもらおうと、つやのいい新鮮なものを選ぶ。 「ソースあったっけ?いいや、足りないと困るから、買おう」 色々選んでいると何だか楽しいと健はまるで新婚の夫のような気持ちになる。周囲から見ていると何だか浮かれすぎではないかと言われるかもしれない。